「世界陸上が東京に来るよー」と織田裕二氏にお声がけいただき、我が家も国立競技場に出向くことにした。時は2025年9月14日㈰…そう、男女100mの決勝が行われる日である。

陸上の大会なんて閑散としてるのがデフォルト

長年選手としての時間を過ごした筆者には懐疑的な思いもあった。
確かにTBSや電通の貢献は素晴らしい。これまではもちろん、今回のプロモーションも素晴らしかった。
陸上選手の身体機能の高さを広く国民に知らしめ、陸上競技への興味を掻き立てようという施策が縦横無尽に張り巡らされ、ついにはTBSの企画でJAL所属の山本凌雅選手も芸人のワタリ119氏と大宮八幡宮の参道で「グリコ」勝負をするところまできた。
三段跳びの選手のバウンディング(=一般で言うところの大股走り)を舐めてはいけない。単純に一歩の距離を比較すると、ワタリ119氏は山本選手にじゃんけんで7割近くの勝率を担保せねば、このゲームで勝利することは出来ない。元陸上選手を夫に持つ妻は画面越しに、その勝負を興味深そうに、時折感嘆の声をあげながら食い入るように見ていた。
しかし私は何度も見てきた。日本のトップを決める大会だというのに閑散としたあのスタンドを。
今回の世界陸上はそのイメージを覆せるのか。甚だ疑問だった。

スタンドは埋まっていた

JR千駄ヶ谷駅に電車が近づくにつれ、見る見るうちに人は増えていく。みんな新宿に向かっているはずだ。これが陸上競技を観戦しに来た人たちなはずがない。それほどの混み合い具合、熱気。

そして千駄ヶ谷でドアが開く。ホームに人の波が押し寄せる。どう考えても彼らは国立競技場に向かおうとしている。それくらい目を見れば分かる。これは思っていたよりもずっとすごいことが起こっているのかもしれない、そう思った。

駅の改札を出る。目指す国立を目で探すと、そこにはもう世界陸上の世界観が広がっていた。まず目に飛び込んできたのは足元だ。東京世界陸上のイメージカラーである江戸紫を基調とした陸上のレーン(正確にはそれを模したプリント)が国立競技場へ至るまでの道を案内するように我々の通路に描かれている。そしてそれを挟むように協賛企業のブースや物販テントが並び、その中を所狭しと数多くの陸上ファンが行き交っている。少し傾いてきた日差しが照らす人々の表情からは、これから起こる歴史的な出来事への期待が隠しようもなくこぼれていた。

競技場が近づいてくる。人口密度もぐんぐん高まってくる。普段使いの東京体育館の陸上競技場もこうなっては全く別の趣だ。遠くに聞こえてくる競技場内のアナウンスが興奮をあおり、まるで自分が出場するかのような緊張感すら漂ってくる。

興奮と緊張を抑えつけながら、手荷物検査を済ませてゲートをくぐると、そこは超満員の人、人、人だった。

陸上ってビール飲みながら観ると楽しいんだ

会場に入っただけで元陸上選手としては頬が緩んでしまう。これほどまでに競技場でギャラリーの熱を感じたことはない。数年前の福岡で開催された日本選手権もまた熱かった。しかしこれは全く違う空気だ。お祭り、まさにそんな感じだ。

一般的なイベントでは当たり前の光景かもしれないが、売店では様々なホットスナックとアルコール(もちろんソフトドリンクも)がそこかしこで販売されていた。長年陸上競技に関わっているが、あまり目にしない光景だ。観戦するだけにせよどこか陸上競技は硬派すぎるところがある。サンシェードもない競技場で真夏の観戦、手には麦茶かスポドリ、炭酸飲料…いずれにしろノンアルコールで、眼差しは真剣。基本的にいつもスタンドにはストイックな仏頂面が並んでいる。それが当たり前の私には、今足を踏み入れたそこで、陸上選手の自分がまるで入ってはいけないところに迷い込んでしまったかのような居心地の悪さを感じた。

と思ったが、先述のお祭りの空気が私の違和感をこともなげに消し去ってしまう。感じたような感じなかったような拒否反応?はどこへやら、息をするように自然に、スムーズに、売店の列に並んだ自分がいた。精算を済ませて席に向かう途中、競技場の様々な明かりに照らされたビールは美しかった。

席に座って妻とアルコールを嗜む。すると流れてくる場内アナウンス、様々な音と映像の演出。
酔ったせいではない。この大会は陸上競技を楽しませようとする工夫で溢れている。
私が現役時代から「こうだったらいいのにな」という世界が今目の前にある。
目頭が熱くなり、心拍数は上がる(後者はお酒のせいかも)。
どうしようもなくテンションが加速する。
こんなことは今までにはなかった。
これほどまでに「陸上競技を観る」ことへの期待が高まったことは。

おそらく同じ気持ちのギャラリーは多かっただろう。競技が始まれば周囲のほろ酔い観客たちが共鳴するように、私たちの、特に日本選手への声援は轟いた。
まるで地鳴りだ。
しかし別にアルコールのせいで変な騒ぎ方をしているわけではない。この声が選手の力になればと心の底から、腹の底から声を出した。その声と熱がスタジアムを震わせていたのを感じた。
また目頭が熱くなった。
このスタンドの一体感もまた、初めて経験したものだった。

メインはやっぱり男女100m決勝

日本選手が出場する男子10000m決勝や男子走り高跳びに加え、女子走り幅跳びなど注目種目が目白押しの当日だったが、やはりそれらの盛り上がりは最終種目の100m決勝に収束していく。

まずは女子100m。日本でも話題のシャカリ・リチャードソンが決勝に残ったこともあって、定刻前からいよいよかというざわつきが会場を包み、選手の登場とともに有力選手が次々に紹介され会場のバイブスは最高潮に。かと思えば、スタートのセットの号令がかかると一気に沈黙の世界へ。観客全員が選手と同じ緊張感を共にする。

静まり返ったスタジアムに号砲が鳴り響くと、全米女王メリッサ・ジェファーソン=ウッデン(アメリカ)が爆発的なスタートを切った。中盤から一気に突き抜け、独走態勢に入った彼女がフィニッシュラインを駆け抜けた瞬間、タイマーが表示したのは10秒61。 

これは2023年大会のシャカリ・リチャードソンの記録を塗り替える大会新記録であり、奇しくも2021年東京五輪でE・トンプソン=ヘラ選手が記録したオリンピック記録と同タイムという、国立競技場にとって「最も速い100m」の再来となった。 

男子100mを前に盛り上がりが最高潮に

メリッサ・ジェファーソン=ウッデンの凄まじいタイムにどよめきがおさまらない。
観客それぞれのジェファーソン=ウッデンへの祝福に加え、この後の男子100mでも何かが起きそう…。そんな空気が確かに同居していた。

さあ、時間になって国立競技場の夜空を切り裂くように選手たちが入ってくる。ノア・ライルズ、トンプソン…現代の人類最速たちが異様な空気感を漂わせながら、のしのしとトラックを踏みしめてくる。その時間には観客は競技経験関係なくもはや陸上競技の虜で、彼らの一挙手一投足に感動してしまう確変タイム。ライルズのスタート前の大ジャンプに、ファンは失神さえしそう。もはやスタジアムは舞い上がっていた。

スタート練習を終えて、選手たちは自らのレーンでまっすぐゴールを見据えている。スターターが所定の位置につき、スタートのセットの号令でその日一番の沈黙をスタジアムが包み、長い長い数秒の後に鳴った号砲とともに歓声の雷がスタジアムに落ちた。

その中にあって力強く飛び出し、中盤からの凄まじい加速で他を圧倒し優勝をさらったのは、ジャマイカのオブリク・セビル。自己ベストを更新する9秒77でフィニッシュラインを駆け抜け、ジャマイカ勢としてはボルト氏以来10年ぶりとなる世界陸上同種目のタイトルを奪還。亡き父への思いを胸に挑んだセビルは、歓喜の表情で国立のトラックに身を投げ出したと同時に、すごいタイムが出た、すごいものを見たという感動もまた私たちの心の中に生まれたのだった。

2位には同じくジャマイカのキシャーン・トンプソンが9秒82で入り、ジャマイカ勢がワンツーフィニッシュを達成。3連覇を狙ったパリオリンピック王者ノア・ライルズ(アメリカ)は、終盤に驚異的な追い上げを見せたものの、9秒89で銅メダルに留まったが、その健闘に惜しみない拍手が送られた。

陸上競技って素晴らしい

一緒に観戦した妻はもともと剣道部だ。陸上競技は何の脚色もなく1mmも齧ったことがない。しかし、様々な感情の余韻が残るスタジアムを後にする際、「陸上競技って面白いね」と言われたことは印象深い。
これまで陸上競技は「ただ走ってるだけ」だの、「マゾがやる競技」だの周囲からは酷い言われようだった。だが、妻がそうだったようにこうやって心を動かされた人はきっと一人や二人じゃない。付き合いで見に来た観客だって少なくないはずだ。だが帰りの道で今日のイベントに不満そうな顔をしていた人は一人もいなかった。それだけの力が陸上競技にはある。

いかに正しくエンタメできるか

ただ、いつもの陸上競技大会ではこうはいかない。日本選手権レベルの大会でギリギリ。それ以下となるとあまりにも粛々とした競技色が強すぎて、よほど陸上競技に鍛えられた感性がないと、真剣に観戦したって多くは感じ取れない。

その日の感動と同時に私の心には「陸上競技はその魅力を通常の運用から表現できるような仕立てや工夫にできているのだろうか(いや、できていない)」という感情が生まれ、世界陸上というベンチマークを相手に日本の陸上競技の世界はどうなっていくのか、そんな途方もない妄想に思いを馳せる夜となったのであった。

By 大澤

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