木梨は間違いなくゴール30m前から目を瞑っていた。いや、かろうじて前だけは見ていたかもしれない。ただ、少なくとも横を走る選手の姿は彼の視界にはなかっただろう。
陸上競技はまわりとの勝負ではなく自分との勝負だと言われることも多い。それを木梨はまさに体現した。ただただ自分の肉体との戦いを10秒間の中に詰め込んで、ゴールした後啓かれた世界は、どよめきとともに彼を学生日本一として称えた。

2025年6月5日~8日にかけて第94回日本学生陸上競技対抗選手権大会が開催され、その2日目に男子100mの決勝が執り行われた。
絶対王者ともいえる栁田大輝(東洋大4年)が欠場となるも、スタートラインに並んだ面々は現在の学生短距離の間違いなくトップ層たち。
世界リレー代表の井上直紀(早稲田大・4年)、愛宕頼(東海大・4年)、
4月の日本学生個人で優勝した大石凌功(東洋大3年)とそれに続いた灰玉平侑吾(順天堂大・M1)、
そして関東インカレ2部優勝で、追い風参考ながら9秒台を出したこともある守祐陽(大東文化大・4年)
と強者ぞろいだ。
その中であって、木梨は集中していた。

3月の世界室内選手権60mではセミファイナルにまで駒を進めた。持ち味の前半でどこまで差をつけられるかが勝負所。

号砲が鳴った。強力な顔並びを相手に身体一つ抜け出すと、ここからは他の追随を許さなかった。
谷川聡コーチからこれまでのように全力ではなく9割で出ることを意識するように指導を受けた。
その甲斐あってか、木梨の動きは最後まで精彩を欠くことはなかった。

「隣が見えなかった」と語るが、後半は目をつぶって余力を振り絞った木梨。
2位の愛宕に声を掛けられるまで自分が勝負に絡めたのかも認識できていなかった。
大型モニターに映し出された結果を見て、ようやく事態を正しく把握。
驚きの表情を見せると、顔覆ってその場でしゃがみこんだ。

もともとは全国大会出場できるというくらいの選手だったが、順大で年々力をつけ、4年時には国体成年100mで6位に入賞。冬の日本選手権室内60mで初の全国制覇。
筑波大院に進んでからも、本番の出場機会は得られなかったものの昨年の世界リレー4×100mリレーで代表入り。準備は進んでいたが、地元岡山の地で番狂わせと言っていい決着をとなった。

「(自己ベストは10秒21で)まだ10秒1台がないので、日本選手権の準決勝で出して、決勝に残りたい」すがすがしい笑顔で木梨はそう語った。

By 大澤

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