2018年、山縣亮太(セイコー)にとっては躍進の年となった。
しかし、その前年は苦しいシーズンスタートを強いられていた。

■2017年~2018年 見えたはずの光明

2017年6月、日本選手権男子100m決勝。スタート地点に立つ8人の男たちは日本一の称号を冠するために鋭い眼光を放って佇んでいる。「誰が勝つのか予想ができない」。それほどまでに近年稀にみるハイレベルな争いが始まろうとする中で、山縣はその存在感を失っていた。

山縣といえばスタートの鋭さが注目されがちだが、30mまでの加速局面から30m~60mまでの中間疾走の局面の移行のスムーズさ、そして中間疾走で生み出すトップスピードの高さが、山縣のレースの安定感を支えている。
しかし、予選・準決勝と、走りは小さくなり、いわゆる「刻む走り」になっているような印象を筆者は受けた。

そして迎えた決勝は10.39 (+0.6)で6位と惨敗。雨に濡れたトラックがスタジアムのライトを反射して作った光の道は、彼の望むところへはつながっていなかった。

しかし、驚かされたのはその修正力だ。9月に開催された 全日本実業団対抗選手権の男子100mで10秒00(+0.2)を叩き出すと、その調子そのままに2018年の日本選手権男子100mでは、桐生祥秀(現:日本生命)らを抑え、 10.05 (+0.6) で見事に日本一を奪還する。2013年以来の5年ぶりの戴冠であった。そして同年8月に開催されたアジア大会では10.00(+0.8)をマークし、銅メダルを獲得。長年期待された9秒台はもう目の前かと思われた。

■僅かなズレ

では現在(2019年度)の山縣の走りはどうか。現時点のベストは10.11と揮わない。極めて現実的な話をするなら、2017年の全日本実業団対応選手権や2018年のアジア大会決勝の走りを、追い風2.0mのレースですれば、9秒台など簡単に出る。場合によっては日本記録の更新も視野に入る。もちろん風を読み切ることなどできないから、何度も何度も同じレースができるよう突き詰めるしかない。誰にでもできることではないが、走っては自分のフォームを映像で確認し、考え抜いてはまた走る。そういう練習をずっと繰り返してきた彼なら、と期待してしまう。だが、そうなっていないということはベスト記録が出たレースと何かが変わっているということだ。

前置きが長くなってしまったが、当記事ではその「何か」を、映像を比較することで確認してみたい。

上が2017年の全日本実業団対抗選手権100m決勝、下が2019年木南道孝記念陸上競技大会100m決勝である。一見、何の変化もないように見えるが、実はスタート直後の局面、さらに中間疾走の局面に共通した変化がある。

■骨盤の傾きのメカニズム

それは「骨盤が後傾している」という点だ。
「腰/骨盤」は、スプリンターが必ず直面する課題である「前傾」の成否を分ける大きなポイントである。

そもそも、なぜ前傾していたほうがいいのか。

それは「重心が体の前方にあるのだから、前に進みやすい」とかそういう単純な理由からではない。もちろん加速局面ではその側面も否定はできない。ゼロ速度から後ろに脚を蹴り伸ばして加速していくのだから、当然その運動体の重心(主に上半身)は前方にあったほうがいい。「運ぶものは前、推進力は後ろ」というのは、ロケットと同様の力の構造だ。

ではなぜ「腰/骨盤」が大きなポイントになるのか。

多くの日本人は直立時には骨盤は前傾していない。直立しているようなイメージだ。様々な民族の中でも骨格の関係で、前傾した骨盤は殊更維持しにくく、これはもうしょうがない。

ちなみに、その体勢で足踏みをすると
難なく体の真下に接地できるから、何の苦労もなくその場にとどまることができるだろう。もちろん、こと陸上においては悪い意味でだ。

しかし背筋を引き上げ、骨盤を前傾させて全く同じ動きをすると
「真下に接地しているつもりでも体の後方への接地」となる。
さっきは何の意識もせずにその場にとどまっていたのが、逆に動かないようにという意識が働く。

なぜなら、骨盤を前傾させたことで角度が変わり、「骨盤の真下」とは体の真下ではなく、体のやや後方を指すことになるからだ。

するとどうだろうか。骨盤を前傾させていなかった際の足踏みの可動域は、そのまま後ろに弧を描くように骨盤の前傾角度の分だけずれ込み、単なる足踏みが後方へのキックへと変わる。

注:AとBの腰以下の確度は一切変更を加えていない

■骨盤を前傾させるメリット

この場合、大きなメリットが2つある。

まず1つ目は、
接地/踏み込みにアクセントを持たせる一方で後方への蹴りこみにかかる負荷を軽くすることができるという点だ。

後方への蹴り込みは大腰筋・大殿筋・ハムストリングスが代表する人間の背面の筋肉が動力となっている。

これらの筋肉群はもともと速い動きを得意とするものではないし、日常の生活の中でも意識的に使われづらいため、大腿直筋などの前面の筋肉群より筋力が弱い傾向にある。走る際に高い負荷をかけるスプリンターは、よく大腿二頭筋の肉離れなどを起こしたりするのは読者ならご存じだろう。同じ負荷をかけているのに、なぜ大腿四頭筋が肉離れを起こさないのか。それは単純に二頭筋群よりも「使い慣れていて強いから」である。

骨盤を前傾させて、「真下」の定義を変えることによって、強い大腿四頭筋がやや体の真下よりも後方のところまで担当してくれる。ある程度勢いがついた状態で大腿二頭筋群に続きの動きをパスすることで、高い負荷がかかる動きを一部でも(特に蹴り始めという最も負荷が高いところを)代替してくれるから、怪我しやすい部位への負担も比較的軽くなる。

さらに足を後方に送る動きが強化されるので、これまでよりも体の前に接地し始めても走りとしてまとまるようになる。伸ばした分はそのままストライド(歩幅)として獲得できる。
※もちろん、最低限の筋力と柔軟性がなければ、上記同様肉離れなどスポーツ障害を引き起こす可能性があるから注意しなければならない。

■二つ目のメリット

そしてメリットの2つ目は地面の反力を効率的に使いやすくなるということだ。

骨盤が前傾していれば接地した際の反力が骨盤の下部を押し上げるようにして、前傾を維持しようとする。前方で接地したとしても、ブレーキになる力は上半身まで伝わらず、骨盤までで止まり、体の高さを維持する力だけを残して、慣性によって上半身は難なく前方へ進んでいく。しかし、骨盤が後傾してしまうと後傾は助長され、ブレーキはそのままブレーキになる。

だから上半身を倒しこんでいることと、骨盤まで前傾していることはまるで違う。上半身が前方に倒れているように見えても、骨盤が最悪後傾していたら、上記のリスクをすべて背負うことになる。もし自身の前傾に疑いを持ち始めた選手諸君は、ぜひ気を付けてみてほしい。

さて山縣の走りに目を戻すと、上記の前傾の定義に留意しながら見たとき、
好調時の前者は前傾ができていて、今年度の後者はそれができていない、と筆者は見ている。
まずはスタート直後の1フレームを切り取ってみよう。

2017年 全日本実業団対抗選手権 100m決勝(6レーン)
2019年  木南道孝記念陸上競技大会 100m決勝(7レーン)

どうだろうか。確かに頭の高さが違っているが、それよりも腰の角度に注目してほしい。大きな差異があることに気づくだろうか。次に疾走区間の1フレームを見てみよう。

2017年 全日本実業団対抗選手権 100m決勝 (先頭)
2019年  木南道孝記念陸上競技大会 100m決勝 (先頭)

角度を似せたかったため、同じ区間の1枚とはならなかったが、後者も特にそのままトルソーする動きを見せなかったため、中間からここまでほぼ同じ動きを山縣はしていた。
この時、少し確認しづらいかもしれないが、全日本実業団時の方が腰/骨盤が前傾しているのが分かるだろうか。走りを形作る要素として、これがすべてではないにしても、どうしても最も大きな変化として着目せざるを得ないのだ。

■改善点が多いのは希望でしかない

ただし、良い見方もできる。おそらく近年の山縣の筋力は向上しているのではないか。しかしその力を返してもらえないまま、無理やりではあるものの大きな差のないタイムで走れている。つまり、±ゼロで2019年を走っていたのだ。このマイナスを取り除ければ…。

山縣亮太は間違いなく陸上競技界の至宝だ。9秒台の一人目は彼だと常々思っていた。群雄割拠の日本男子スプリント会に、観衆の想像を超える形で帰ってきてくれることを心から望む。

By 大澤

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