2021年9月24日~26日にかけて、大阪のヤンマースタジアム長居にて第69回全日本実業団対抗陸上競技選手権大会が開催された。東京オリンピック開催の影響もあってか記録は全体的に振るわない印象を受けたが、その東京オリンピックは日本代表を経験したベテランたちに、競技生活の一区切りをつける決意をさせる1つの契機ともなった。
■短距離では富士通の高瀬、Mizunoの金井・和田・市川、デサントの矢澤が引退
男子短距離では100m・200mの高瀬慧(富士通)、110mHの金井大旺(Mizuno)・矢澤航(デサント)、女子短距離では和田麻希・市川華菜(ともにMizuno)が、全国規模の大会ではこれを最後にトラックから去ることになった。
最終日にはMizuno主催で自社選手の引退セレモニーとして、金井・和田・市川の3名に普段使用しているスパイクと同モデルの金色のスパイクが贈られた。サプライズだったということで、金井は驚きを隠せないようだった。
以下はそれぞれのコメント
●高瀬慧(富士通)
4×100mRではチームとして優勝できて総合優勝に近づくことができ、とても嬉しい。富士通のユニフォームを着ての最後のリレーになることについては、入社当時から強いチームであったことからも最後はやはり勝って終わりたいという思いがあったので、とてもよかったと感じている。これから強い富士通が戻ってくるのではないかという希望も見えたことも非常に嬉しい思いでいる。走りを通して、仲間と一緒にやってこれたことが自分にとって一番の財産だと感じている。
これまでで一番印象に残っているレースは、2012年の日本選手権の200mで優勝してロンドン五輪を決めたレース。2011年の日本選手権では自分がランキングトップで臨んだにも関わらず、優勝することができなかった。世界選手権にも出場できず、自分がどうやったら勝てるのかと思い悩みながら、先輩の高平さんにもアドバイスをいただき、1年越しで勝つことができた。
またそれで出場したオリンピックや世界選手権などに出場することで学んだのは、世界と勝負するにはタフさが足りないということ。今後指導者のような形で教え子に伝えていきたい。
全てのレースを終えて思うのは、競技者として自分はとても幸せだったということ。機会に恵まれなかったという見方もあるが、それは自分の実力が足りなかっただけ。結果が出ても出なくても周囲にはいつも応援してくれる人たちがいて、不運だったと思うことはなかった。
■ 金井大旺(Mizuno)
まずはこのシーズンでは最後の大きな大会だったので、優勝できて本当に嬉しかった。
現役最後の目標と決めた東京オリンピックが終わってからは、この大会に向けてすぐに気持ちを作り直そうとは思ってはいたものの、心と体がついてこなかった。しかし、この大会は勝ちたい大会だった。予選はスタート直後のリズムアップもできておらず速度も出ていないという状況で苦しいレースとなったが、決勝のスタートラインではその修正のイメージと勝つんだという気持ちは仕上がっていた。そういった意味でレース終盤では石川選手に負けそうな形になったものの、最後までくらいつき、勝ち切ることができた。
また大学時代に指導も受けた矢澤選手と同じ決勝の舞台で走り、ともに引退を迎えるというのは感慨深く、嬉しくもあった。
現在の日本のハードルは非常にレベルが高くなっている。13秒1台で走っても代表に入れるか分からないという状況。それは選手たちに大きな刺激となっていい影響を与えている。現在のように全体の意識が高いまま、現役選手にはがんばっていってほしいと思っている。
■矢澤航(デサント)
意外と自分の中でもすっきりとしている。最後ということもあり、いろんな想いを持って決勝に臨むことになるかと思っていたが、いざ始まってみると隣の選手に勝ちたいという普段通りの気持ちでレースに臨むことができた。
現役引退を決めたのは、東京オリンピックが決まった時。2020年であれば自分も29歳ということもあって、時期として申し分ないということから、そこを最終目標として、所属は違うが金井選手とともに競技に取り組んできた。オーバートレーニング症候群が出て、自分が好きでやっていることがこんなに自分を苦しめるなんてと悩んだこともあった。ここ5年くらいはいつ辞めてもおかしくないというくらい思い悩んだ期間が続いたが、そういった場面でも金井選手はじめ、様々な人々の支えの中で何とか競技を続けてこれた。
また、結果としてかわいがっていた金井選手がオリンピックという扉を開けたことは非常に嬉しかった。今のハードル界のレベルがここまで高まったのは、それぞれの選手が世界で戦うという高い意識を持って自分を高めた結果だと思っている。
今後はデサントに雇用される形となり、社業に専念となるが、今のところ陸上に関連する部署への配属が決まっており、駅伝シーズンになると競技場に姿を見せることになると思う。
■和田麻希(Mizuno)
この大会を以て引退をするということになっていろんな想いがあった。引退についてはこの数年間は常に考えてきた。結果が出なければ辞めるという想いで、一年一年競技に取り組んできた。今シーズンは怪我もあり、五輪という節目も自分の「次」を考えるきっかけとなった。
今大会では周囲からは1種目でもいいと気遣われたこともあったが、種目を絞ることなく100m・200mとしっかり2種目で走ることもでき、タイムはよくなかったものの自分らしい走りができたので、悔いはない。
もともとは100mの選手で、どうしてもそちらがメインというイメージがあった。とはいっても、相互に調子の良さをはかる種目となっていた面もあって、200mを捨てることもできなかった。
レースが終わっていろんな選手に労いの言葉をかけてもらった瞬間は、本当に幸せだったなということを感じられた。
これからは場がどこになるかは未定だが、これまでの経験を若い世代に伝えたいという想いがある。パワフルで長く競技を続けられる選手を育てたいと考えている。
■市川華菜(Mizuno)
この大会が自分の陸上人生の最後となっただけに、これまでで一番早く100mを駆け抜けて終えたいという想いがあったが、心と体が一致していないというのが正直なところだった。ゴールできて本当によかったというのが率直な感想。
これまでは「怪我をしたとしても諦めない、絶対にもう一度がんばってやる」と思える熱が常にあったが、今年に入ってから心の中で何かが切れた感覚があり、普段の練習をこなすにしても、アスリートとしての熱・感情が何も立ち上がらなかった。結果的には引退につながったが、そのタイミングでは引退とつなげて考えることもできていなかった。最終的には春ごろに引退を決めたものの、何を目標にしていけばいいのかすら分からない時期が続き、辛うじてこのまま中途半端には終われないという想いを胸に、様々な人の支えを得ながら、何とか今日この場に立てたという状態。
一番印象に残っているレースは日本選手権と言いたいところだが、実際は大学1年生の時に出場した織田記念。
生きている中で一番あっという間に100mが終わったことが印象深い。
自分にとって100mは難しい種目だった。100mの練習をしているだけでは結果が出ず、200m・400mが走れるようになってからようやく100mが伸びてきたということがあるなど、一筋縄ではいかない種目だった。
※大学時代にはマイルにも出場していた。
今後のことは具体的には決まっていないが、後進の指導にあたりたいと考えている。
■跳躍からは長く棒高跳びを牽引してきた澤野が引退
澤野大地(富士通)は長きに渡って日本男子棒高跳びの頂点に君臨してきた。そんな彼も41歳となり、彼に憧れた少年も今では同じ競技場で国内トップの座を争うようになるまで時は流れた。世界選手権は2003年のパリ(2019年のドーハまで計7回出場)、オリンピックは2004年のアテネ(2016年のリオまで計3回出場)から現在まで、長きに渡ってJAPANのユニフォームを着続けた。誰もが疑わぬ第一人者であり、陸上界にとっては背中を見せることで多くの才能を陸上競技に進ませ功労者でもある。
今大会はの記録は5m20cmで、自己ベストであり日本記録である5m83cmには遠く及ばなかったが、競技を終えた彼のもとに握手に訪れる選手は後を絶たず、競技中にも関わらず澤野と目を合わせると涙を目に湛える選手すらいたほどで、最後には多くの報道陣や選手に囲まれて現役最後のピットを後にした。
以下は澤野のコメント
「現役生活を28年間続けたが、幸せな競技生活を送らせてもらった。41歳になって競技ができたのは、自分を支えてくれた周りの々のおかげで心から感謝している。
全ての試合が思い出に残っている。ただ長居については特に思い出深い競技場だったと思っている。2007年の世界陸上では全身けいれんを起こし、記録なしになってしまったこともあったし、2012年のロンドン五輪の最終選考会については大雨の中、山本聖斗選手と2~3時間ジャンプオフで跳びあったということもあった。リオ出場や、東京オリンピックを目指そうという力の源泉になった。
棒高跳びでは記録の底上げがなされてきている。それは全国の指導者や競技者の努力の賜物だと思っている。そのうえでダイヤモンドリーグなどを転戦してファイナルに残ったりなどの経験を経て伝えていきたいのは、実際に世界に出て、世界で戦う「強さ」を学ぶ必要があるということ。
今後は日大で教員・コーチとして活動することが主となる。指導者としてはまだまだこれからと認識しているので、成長していく中で、その世界で戦える「強さ」を身につけさせてあげられるよう、選手たちと真摯に向き合っていきたい。」
■投擲からはやり投げの村上が引退
村上幸史(テック株式会社)も長く自らの種目を牽引してきた一人だ。2009年のベルリン世界陸上では日本人で史上初となる銅メダルを獲得し、それをきっかけにバラエティ番組やプロ野球の始球式など世間への露出も劇的に増え、やり投げという種目を世に知らしめた、陸上界にとっては大変な功労者である。
近年では若手の台頭もあり、また、パフォーマンス面から事実上引退しているような状況が続き、国内トップ戦線から離れてはいたが、ついにこの大会を最後に現役を引退する決断をした。記録は68m63cmだった。
以下は村上のコメント
「昔から一緒にやってきた選手たちと今日の競技ができたことは本当に幸せだった。
体力的には事実上これより前にすでに引退していたようなものだった。しかし、気持ち的に区切りをつけたいということで今大会に出場した経緯がある。
2007年の長居で開催された大阪世界陸上が、自分が明確に世界を目指そうと思ったきっかけとなった大会だった。それと同じ会場でたくさんの仲間たちと区切りをつけられたことは本当に良かったと感じている。
今後は機会があれば自分のやってきたことをしっかりと伝えていきたいと思っているが、いったん今日が区切りということで、これからのことはゆっくりと考えていきたい。少し興味があるのはマスターズ。そういったことを考える年齢になったんだなと感じている。
これまでやってきた中で、80mのラインを超えないと観客が納得しないという世界が作れたことは本当にすごいことだと思っている。現役の選手にはそれに続いて切磋琢磨をして、お互いの手の内を見せあうことも厭わず、ともに成長して本当に世界を意識して努力していってほしいと思う。」